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山ちゃん5963

山ちゃん5963

THANK YOU日本の国

日本の国

卑弥呼(天照大王の命)

邪馬台国の卑弥呼は父からいろんな話を聞き、東南アジアの様子もよく知っていた。卑弥呼が十五歳の時、父(シャーマン)がお隠れになった。卑弥呼は生まれつきシャーマンであった。倭の国の人々も父の偉大さを知っていたし卑弥呼の素晴らしいシャーマンぶりをみてこれを「女王」と呼んだ。女王卑弥呼は大和の国をみんな従えていたが、東北には蝦夷(えみし)西南に熊襲がいた。あるよい日、卑弥呼は蝦夷と熊襲を討てと命令した。卑弥呼の弟大和武の命は東奔西走したが、なかなか難しく、この戦は百年続くのだ。やがて大和の五王が生まれて育った。五王は戦好きで片端からやっつけた。大和の国。つづく。

倭の五王(天皇のご先祖)

倭の五王の働きで熊襲は沖縄へ、蝦夷(えみし)は蝦夷(えぞ)のいる北海道へ逃げ込みアイヌの国を作った。熊襲は沖縄に琉球王国をひらいた。これらはやがて日本に吸収されるのだが。日本は昔から戦好き。これで人口を調整しているのだ。さて本編に戻って卑弥呼は六十五歳でお隠れになり車塚古墳にお眠りになられた。その後お墓は荒れ草木に覆われて荒地となったが、大体の墓の恰好と名前だけは言い伝えた。邪馬台国は九州だの大和だの言っているが卑弥呼は大和(奈良)の飛鳥にいたのだ。やがて車塚古墳から金印が見つかるだろう。魏の国から貰った鏡も、絹製品もあるだろう。丹波の国・但馬の国・出雲の国その他九州北部の国もあったのだ。大和のあけぼの。
つづく

丹波市篠山市福知山市

これらは丹波の国だ。ここを起点に国造りをするのだ。山口企画をもとに丹波をよくする。まず東北の皆さん家のない方丹波に来ませんか。丹波は雪も一・二センチ、多くて五センチ。ここに土地二百ツボ無料で提供します。家は自分の好きな家半額持ちますので半分はローンで払って下さい。丹波市は恩給二十万円毎月出します。子供手当一人月十万円出します。社長も私も無給でがんばりますので是非丹波市に来てください。つづく

丹波の大王(熊野神社と今なっている)

丹波の大王は生前より眠る場所を決めていて石があり家の建っていない所を決め生前からお墓を築き始めていた。大きな石はそこにあった。その古墳ができると眠るようにお亡くなりになった。その古墳を囲むようにみなお墓をたて死後も一緒に暮らせるようにその地は古墳だらけになった。これを今言う北野古墳群である。今だけで百基の古墳がありその昔はたいそうなものだったろう。もちろん我々はその古墳をお守りしてきたのだが、なにせ、千何百年の間に風化して石は庭に使われ、我が家にもおじいちゃんが石を運んで庭にしたといいつたえられている。石の庭木と一緒に。


丹波の国(丹波市篠山市福知山市)

丹波の国は但馬と隣接している。大和の国とも近い。大和の卑弥呼とは仲が良かった。卑弥呼に大王の称号をもらい正式に丹波の大王と名乗った。卑弥呼は女王だった。丹波をはじめとして倭の国々は連合国なのだ。中国の魏の国へ使いを送るときこの倭の国々へと入りながらのんびりと旅をしたものだ。今は早すぎる。その魏の国に大王がいた。卑弥呼は使いを出して奴隷五人綿の反物十反を持って行った。魏の王は非常に喜びこの使いを歓待した。

丹波の大王2

丹波の大王は八幡さんの所に住んでいた。丹波の大王は夜は姫を可愛がり昼は仕事をしていた。まず米、できるだけの開墾、これはなかなかしんどい仕事で、農民と共に働いた。今の水田はこの時開墾した田圃なのに今は太陽光発電、まあ時代を反映している。原発は放射能で駄目。火力発電は排気ガスが臭いので駄目。水力発電と太陽光そして風力発電だなあ。この火力発電を水素発電にしたら排気ガスは水なのだ。なぜこんな簡単なことに気付かないのだろう。石油なんかもういらない。丹波の大王からえらい脱線したなあ。ま大事なことだからね。つづく
丹波の大王3

さて話を戻すがこの時米がたくさん出来たので海の民からいろんな魚を米で買い山の民から肉(鹿・猪)あとなんでも米でたくさん買った。野菜は田圃にし難い所で水は運んだ。たくさんの野菜ができた。女は山に行きたくさんの食物を摘み取り(団栗・栗・椎茸・松茸)それから胡桃も実、蕗(ふき)、薇(ぜんまい)などなど。まるでスーパーマーケットみたいに多くの食物を採ることができた。今とあんまり違いはない。他に卵、山羊の乳。家畜の糞は肥料に使い、勿論人糞尿も肥料に使った。それはこの間まで続けられていたことだ。私の子供時代のことだ。よく覚えているよ。お父ちゃんもお母ちゃんもおじいちゃんもおばあちゃんも働き者だった。私はのんびり暮らしていた。
つづく

東京・京都

私は昭和二十三年十月五日七時五十分に生まれた。弟は昭和二十六年三月三十日生まれた。そのときお母ちゃんの声が聞こえたので入ろうとすると、おばあちゃんが止めあやしてくれた。この時三つ、なぜこんなことを覚えているかしらないけれど、この時から私はおばあちゃん子になり、おばあちゃんは子供がいなかったのでまるでわが子のようにかわいがり甘やかしてそだてたのだ。それから私は甘えん坊の子供になった。それでも十八歳になり高校を卒業したら、京都へ行きたくなって、前からやっていたエレキを持って行った。会社は長計量だった。なぜかというと私は細かい仕事が好きで、本当はなぜか職人になりたかった。その募集はなかった。勿論細かい仕事は難なくこなした。私には物足りなかった。二年で辞め
(つづく)

エレキバンド(ベンチャーズ)グループサウンズ

これらは会社にいる時からやっていて退職時に止め、女の子の紹介でロックバンドだった。
行ってみるとボーカルが欲しいと言うのだ。リードギターは私より上手かった。歌には自信があったので、試験を受け(バンドをバックに歌う)。これは、リーダーが合格やと言った。そして、これ(ロックのレコード)を覚えてこいと言うので会社の寮に居た友人にプレーヤーを借り一日で覚えた。あとは歌詞だ。私は英語が得意なので筆記体で書き、まあ二・三回で暗記した。この状態が続き、十五曲くらい歌えることができた。早速リーダーが仕事をとってきて演奏した。所謂ディスコのはしりだったなあ。私はバッカスという名で、バッカスは覚えてないが、私のことはよく覚えられ、えらいことになってしまった。私は女の子にジュリーと呼ばれたのだ。
ジュリー

私はよくもてた。女の子はたくさんだいてもだいてもへっちゃらだった。みんな身を投げ出してくるのだ。しかし女の子も十七~二十三くらい、私だって悪いことじゃないと思っていた。女の子だってまだ結婚なんて考えてないし、これはプレーだ。いろんな女の子と出会い、いろんな別れもあった。女の子だって、結婚するのはまだ先、結婚のことなど考えてないのだ。確かに一人でやるより楽しい。様々な女の子が来る。選り取り見取。とにかく、ふつうの女の子みなだいた。子供はできなかった。そうした折陽子と出会った。陽子は美人。体はほっそり。まるで天使のようだった。


東京(夢の東京、どうしても東京へ行きたかった)

和久君も居ることだし二人で夢を語りたかった。ヨーコは十七才、高校二年だった。ヨーコは初めてで僕は三人目。もう要領はわかっていた。かなりのテクニシャンだった。でも相手は処女、これは難儀した。でも一年もたつと娼婦のようになった。朝は妻、夜は娼婦。子供が出来たらおかあちゃん、年いったらおばあちゃん。九十歳まで生きたらもうけもの。病気で死ぬ人もいるのだよ。さぞ無念だったろう。ひ孫が見られたらあの世行だ。結婚したような籍入れなかったよ。子供は出来なかった。女は子供が出来て一人前、出来なきゃ離婚だ。そのうちお父ちゃんが死んだ。
私は長男なので帰った。ヨーコはついてこなかった。


農業1(我が家は農家だった)

二十七で農業をしかけた。なかなか大変な仕事だった。でも、耕運機、稲刈り機、田植え機もあったし、これは氷上自工に田圃を売った金で買ったのだ。お父ちゃんは恩給とりで、生活は楽だったのだ。お父ちゃんは結核で(満州で病気になった)傷痍軍人としてもらっていた。お父ちゃんが死んでお母ちゃんはそのあと恩給をもらっていた(百万円)。そのうちバブルになって二百万円になった。私はそんな事知らずに丹波ナショナルタイヤ株式会社に行き、田圃仕事もしていた。まだ二十七八だし疲れなかった。ビールが旨かった。その内結婚しようと思っていたがヨーコに勝てる女は見つからなかった。見合いもしたが納得しなかった。丹波ナショナルタイヤも熱いし、正社員にもなれず、三年で辞めた。
お母ちゃんは嘆いていたが、
もう嫌だった。
つづく

丹波氷上町

農業をしてわかったことは、田圃は土地だ。ということがわかった。すぐに三十年計画を立て、今に億万長者になる、それまで頑張ろうと思い、農業に励んだ。
そして古い農機具が使えなくなり(修理代がかかる)新車の農機具が欲しいと思い、お母ちゃんに聞くと、なんでも買いない、と言うので、まず、トラクター、クボタの二十馬力モンローマチック(二百万円)を買った。すごい馬力であっという間に田圃が耕せた。こんなものを持っているのはうちだけ。みんなはそれぞれローンを組み買っていた。うちは現金で払った。クボタのちょっとかわいい女の子ビックリしていた。次、井関の四条植え田植え機(六十万円)、そして極め付けは井関のコンバイン(百五十万円)つづく


農業2


コンバインには乾燥機がついていて、全自動乾燥機百五十万円、そして籾摺り機百万円、全て現金だった。お母ちゃんは恩給二百万円(年間)もらっていたので所帯は細かいが農機具を買うときはすぐ現金を用意してくれた。私はごはんとおつまみとビールがあれば良かった。時にはウヰスキーも飲んだ。兎に角アルコールが無いと「力」が入らない年齢になっていた。その頃私は病気になり、夜眠れないのだった。早速柏原病院脳神経外科に行き診てもらった。すると、先生は、「眠くなきゃ、起きてればいい。」と言った。私は言葉を失った。・・・・・・・・・・・・・
そうすると、看護婦さんが、お母ちゃんに、香良病院に行ってみたら、と言うので、香良病院に行った。

精神病院1

そこで院長先生に会うと、睡眠薬をくれた。早速家に帰って、飲むと、眠くなり、二十四時間寝た。起きてみるとごはんが作ってあった。ごはんを食べ、たばこをのむと、すっかり落ち着いていた。又農業して、機械は最高だし、素晴らしい仕事が出来た(みな私山口にならった)。我が家はいつでも最初だったのだ。草刈機も最初だったとお母ちゃんは言っていた。「皆見に来た。」と言っていた。丹波コシヒカリも最初だった。本家の抜け目ないおっさんも種を分けてくれと言った。みんなに種を配って、北野はみんなコシヒカリを作った。ま、後で気が付いた時、我が家は代々名主だったのだ。そのことに気付いた時、私は香良病院を、出たり入ったり、のんびり暮らしていた。

香良病院(その実態と夢と陰謀)

たばこは一日ひと箱、アルコール無し(これでアルコール中毒から治った)今はアルコールはゼロ。たばこはメビウス1のロングひと箱(余るのでこれで、おやつとかバナナとかを買う)牛乳ひとつがたばこ5本、バナナ1本、おやつは交渉次第。何も不自由はない。私は先生と呼ばれている。三病棟を仕切っているのだ。ホテルが建つのをみんな待っているのだ。看護師、患者、五・六人雇うのだ。眼鏡の看護婦の子供がシェフをやっているらしい。味を確かめてから雇うかもしれない。院内病院の先生を金田先生か道三先生に頼むかもしれない。ちーたんホテルは素晴らしいホテルだ。
(つづく)

薬は(一生飲まねばならない)

新しい丹波市民病院に精神科があれば、そっちに変わるつもりだ。薬は同じだからね。氷上工業団地あとだ、歩いて行ける。いいところだ。我々の丹波ちーたんホテルから見えるかもね。良い町になるぞ。丹波市民病院より早く建つといいのだが。柏原病院と日赤跡池は養老院になるらしい。養老院の客を丹波ちーたんホテルに泊めなければいけないのだよ。あと丹波市民病院の客も泊めねば。遠くから来るから日帰りは出来ない。患者と一緒に一夜を過ごすんだ。いい思い出になるよ。これが丹波名物、混浴風呂(温水プール)展望スカイレストラン、客室もこりにこって作る。
つづく

丹波ちーたんホテルの部屋

基本的にツイン(セミダブル)ベッドが二つ。畳の間八畳、ここで飯を食う。あと三人(子供)布団を敷いて、全部で五人泊まれる。一泊二食で五千円。昼も一人千円まで(カレーライス五百円、定食八百五十円)など好きなものを食べられる。夜はベテランシェフの食事を見て、食べて、下さい・。ビール(アサヒのスーパードライ)か(剣菱の熱燗)がつくのだ。勿論室にトイレ・シャワー・バスと一流ホテル並み。支配人はエビさん。何でも聞いて下さい。勿論露天風呂(温水プール)が最上階にあって、ここは混浴だ。恥ずかしい人は水着を着けて入るか部屋のシャワーを使って下さい。部屋では五十インチのテレビが無料で見られます。DVDはフロントに行って借りて下さい。CDもね。今はキャリーぱみゅぱみゅの最新DVD(IN ニューヨーク)があります。AKB48SKE48何でも大画面で見られます。
つづく

丹波ちーたんホテルの全貌

場所は丹波市北野田圃を宅地に変更して、十階建ての鉄骨でガラスばり。黒いガラスで内側からは外が良く見える。
バスが五台とめられる駐車場。マイカーが二十台とめられる駐車場があって車で来ても電車で来ても石生駅(丹波ちーたん駅)福知山線ですぐです。京都から大阪からすぐです。高速ですぐです。地図を見て来てください。特急「こうのとり」が走っています。よく調べてから来て下さい。とってもいいところです。上に回転レストランがあります。そこからの展望は素晴らしいです。露天風呂(温水プール)があります。
つづく

最近の国の情勢

最近国際情勢もややこしくなって、テレビのニュースを皆見ないので私は困るのだ。馬鹿ばっかり揃っていて、まともなのは二三人だけ。あとは皆病気だ。私自信は普通だと思っているが、よくわからない。ま、もう少し居る。和久(社長)が冬場居ないそうなので、春まで居ようかと思いもした、料理がまずいのでどうかと思うが、ま、外泊を取れればうまいもの食べられるので。その他ホテルのボーリングを見て。多分山が岩なので、家の下は岩盤だと思われる。この高層ビルが完成すると丹波市は一のものになるのだ。うちは最初に何でもするのでこのビルこそ山口家のシンボルなのだ。
つづく

先祖のおかげ

我々がこの地に生まれ、この地を引き継いできたのも全て自分で描いたものだ。私はこれから先どうなるのか全て知っている。この本こそその事をうかがい知れる参考書だ。この本を読んであとは自分の判断で生きろ。私だって何時交通事故とか病気で死ぬかも知れない。この本を書き上げてから死ぬように祈っている。出来れば長生きをしてこれら私の夢が現実になるのを見てみたい。茶々が子を産めば私の孫なのだからそれも見てみたい。世界連邦もどうして、どうなるのか、見てみたい。
私の予言は当たるのだが、どうして、どうなるかはわからない。
それは神の領域だ。神

第三次世界大戦

前出の為  中略
世界大戦の後始末

日本は自衛隊を総動員して人命救助に向かう。薬・点滴・手術・敵国でも生命があれば助ける。警察犬もいる。重機もある。
前満州から日本人が足手まといとなる子供を置いて逃げて帰った。お父ちゃんも結核をしたが日本に帰ってきた。お父ちゃんは戦争のことで話した事はない。だが、恩給とりになれといったが、私は好きな事をした。恩給など当てにしなかった。二十歳になった。お父ちゃんに金なんかもらったことは無かった。私は私で一人立して、女もヨーコがいたから、でも浮気した。籍にはいれなかったが、マンションに住めるようになった。家賃三万三千五百円。それ聞いてお父ちゃんは呆れていた。月給十五万円。部屋代と経費で五万。月五万で生活して五万は貯金。百万貯まった時にお父ちゃんは死んだ。

お父ちゃんの遺言

まず屋根を葺き替えたい。そして物置を鉄骨にして平屋で建てたい。そして山口家の墓を作りたい。以上だった。屋根は私の金百万とお父ちゃんの貯金百五十万合わせて二百五十万で、見積もり、契約して、青垣の朝倉瓦店にたのんだ。だいぶ難航した。何せ百年も経ってるのだもんね。しかしそれも二か月あまりで、出来、金も払った。しかし、お母ちゃんがもう金が無くなったと言うので、うちの畑を売り、そこに住んでいる丹波ナショナルタイヤの川上課長の紹介で丹波ナショナルタイヤの夜勤で入った。十二万円の給料でなかなかのものだ。お母ちゃんに給料全部わたした。十万貯金、二万とお母ちゃんの国民年金でやりくりしていたみたいな私は二十九歳だった。
つづく

私の趣味

酒・たばこ・読書・家のリホーム・庭造り 等々。屋根は葺いた、墓は立った、あとは台所(キッチン)のリホームこれは2年後にできた、あと2階のリホームも出来た。私は2階に住み楽しみな音楽・カラオケ・ホームバー 何不自由なく住んでいた。家は大きかった。もう離れも雨漏りしないし、お母ちゃんは離れ(座敷)に隠居して、私は、母屋全部を、表では私の趣味で美術品を並べた。みなビックリしていた。私の趣味はそれだけでなく、高い本・高い新しい美術品たくさんある品物もあれから四十年。私が買った物は骨董品になっていた。いつか役にたつだろうといっぱい買った。



山口家新宅は石生一番なのだ

みんなその実体を知らない。今思いついたが、家の裏のごみ燃やすところ、あのごみ燃やすところ掘って温水プールできないか?女の子無料、子供無料、男一万円。身内は只。そんなプールを作ってみてはどうかね。我が家の土地をフルに使うのだ。税金なんかこわくない。草刈の手間も省ける。トラクターだけは置いとけ。また役に立つ時がくるのだ。まだまだ北野は田圃が多い。今は草を生やすことができない。だからみな年をとるのだ。そのとき藤吉郎秀吉君や寧々ちゃんの旦那で男手もあるのでフルに使い、田圃を年2・3回鋤いてやれ。勿論無料。一旦古作権が出来ればその土地は安く、安く買えるのだ。又、昔の山口家のように庄屋になる。
つづく

土地(北野)

氷上町北野は土地が余っている。我々が年を取るように。みんな年寄りになるのだ。年を取れば、農作業も出来ない。そうすると、山口企画に預けるのだ。山口企画はそれをトラクターで鋤き、守りをするのだ。そこに小作権が生じ安く手に入るのだ。一度和久君(山口)の名義になれば、好きなように使うことができる。城田のたっちゃんもこれまでだ、たっちゃんの所の下にビルを建ててやれ。若嫁さんも西日が当たらなくて喜ぶ。ビルは鉄骨ガラスばり、真っ黒なビルにしろ。私が作った墓も真っ黒。もう墓は要らない。今度は黒いビル。それは私の墓でもあるのだ。いっぱい建てろ。多いほど私は安らかに眠れる。
黒いビル。
つづく

丹波市の山々(高台に住みたい人用)

杉・檜 を切り開き、ユンボで均して二百坪の土地を作る。東北地方の方で家の無い方用。雪は1・2センチ、多くて5センチ、まるで天国だ。ここに土地二百坪無料・家は山口企画が半分持ちます。半分はローンで払って下さい。丹波市は毎月一万円かければ定年七十歳で恩給もらえます。そのためには市長にならなくては出来ません。市議会も半数以上取らなきゃなりません。どうか(山口和久)をよろしくお願いいたします。また、高速日本国中七百五十円。JR特急八百円で日本国中、やがて、総理になって丹波市の為に尽くします。丹波市民の会をよろしく。まず丹波市から。よろしくお願いいたします。
つづく


移住(これには未練がのこりますが)

兵庫県はいい所ですよ。兵庫の中心は神戸、でももういっぱい。のんびり暮らすなら丹波市、これからどんどん開けます。山口企画山口センムまで。電話いただければ社長と一緒に私も伺います。何でも相談にのります。お年寄りの方々、私たちに相談してください。どんな些細なことでも社長が伺います。我々は無給でがんばります。もうかればまた山を切り(杉・檜だけ)家を建て、もうかれば、全部、投資して、素晴らしい町を作っていきます。誰でも、古い家を捨て、丹波に住んで下さい。待っております。新築の家が五百万で手に入る。
つづく

檜造りの二階建て(壱千万円半分で五百万)

我々はそこらの不動産屋じゃありません。絶対もうかるようにします。皆さん信じて下さい。早いもの勝ちです。でも丹波市だけじゃなく篠山市福知山市みんな昔の丹波の国なのです。代々続いています。明智光秀が丹波攻めをやり、多くの血を流し神社仏閣を燃やしたから、いまだにみな恨んでいます。その後太閤さんが入り、丹波の大王の信じた八幡さんを元通りにしてみんな喜んでいます。丹波の大王の住んでいた時もみんな相談に来たように今のたくさんのひとがお参りに来ます。丹波の大王は安らかに眠っておられます。

完この話は又いつか書きます。


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